『
ティファニーで朝食を』が、オードリー・ヘップバーンと表裏一体になっていることを、私は、先の投稿記事「
『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ著 村上春樹訳」で触れた。それと同じく、オードリー・ヘップバーンと切っても切れない関係にあるタイトルが、もうひとつある。あらためての説明は必要ないだろうが、誰もが知っている『
マイ・フェア・レディ』がそれである。
ロンドン、ブロードウェイで大評判だったこのミュージカルの映画化に際して、版権を多大な投資で買い付けた当時の大プロデューサー、ジャック・L・ワーナーは、主役のイライザ役に、舞台で大当たりを取った
ジュリー・アンドリュースではなく、ヘップバーンを指名した。スタンダードナンバーにもなっている数々の名曲を、制作スタッフは、ヘップバーン分について一曲を除いてすべて吹き替えにしたものの、このキャスティングが成功して世界的、かつ歴史的大ヒットにつながったことは誰にもよく知られたエピソードだろう。
40年以上が経過して、なお、セシル・ビートンの生み出した衣装は色あせることなくオードリーと一体化しているし、『マイ・フェア・レディ』というタイトルの響きそのものがオードリー・ヘップバーンという女優の個性にぴたりと合っている。
ジュリー・アンドリュースでの映画化では、こうはなっていなかったろう。
その一方で、映画の主役をはずされた
ジュリー・アンドリュースが、同じ年(1964年)に公開された『
メリー・ポピンズ』で、『マイ・フェア・レディ』がその年のアカデミー賞の各賞を独占する中、孤軍奮闘、主演女優賞を獲得して一矢を報いたことも、今なお語り継がれるオスカー伝説である。
ジュリー・アンドリュースは、オスカー受賞後すぐの公開となった翌年の『
サウンド・オブ・ミュージック』のマリア役で、ミュージカル・スターのトップに登りつめ、その座は今なお不動。結果的に、オードリー・ヘップバーンとは全く別の次元での大きな存在となった。ただ、映画でのヒット作には、実はそれほど恵まれていないのだが。
トニー賞の授賞式やミュージカル関係者(例えばキャメロン・マッキントッシュ)のトリビュート・コンサートなどを見ていれば、
ジュリー・アンドリュースがいかに大御所扱いされているかは一目瞭然(りょうぜん)だし、ジュディ・ガーランドやライザ・ミネリ、バーバラ・ストライサンドなどを彼女の上に置くミュージカル映画愛好者は、もはや少数派だろう(どうでもいいことかも知れないが、沢田研二の愛称は、確か「
ジュリー・アンドリュース」にちなんだものだったはずである)。
前置きが長くなってしまったが、14日から全国公開となった、ディズニーの『魔法にかけられて』を見ながら、その
ジュリー・アンドリュースの存在感と『
サウンド・オブ・ミュージック』のアメリカ映画にあっての大きさを、あらためて実感させられた。本作で、
ジュリー・アンドリュースがナレーター役をまかされたのは、製作者たちの素直な敬意に満ちた献呈と受け取るべきだと思う。
映画そのものは、誠にたあいのない、純然たるエンタテインメント。何も考えずに楽しく、気楽に鑑賞できる一編に仕上がっている。覚えやすいメロディーラインの楽曲が次々歌われ、惜しくも受賞は逃したが、今年のアカデミー賞での3曲同時ノミネートもなるほどと首肯される。
日本の伝統的な和歌の世界では、名高い一首を踏まえることを「本歌取り」と称するが、『魔法にかけられて』は、『
サウンド・オブ・ミュージック』の文字通り「本歌取り」作品。風刺、批判の意味合いが含まれる「パロディー」の語を用いるより、「本歌取り」と称するほうがずっと似合っているように思われる。
場面、場面で、これはあそこだなと重ねているうちに、あっという間のハッピーエンド。もちろん、『白雪姫』や『シンデレラ』、『美女と野獣』など、ディズニーの諸作品の「本歌取り」の要素も数多くあって、あれこれひざを打つ設定、場面が満載。へんに構えることなく、能天気に楽しみたい。
主役のエイミー・アダムスの評判がいいようだが、お姫様役として、ほんの少し薹(とう)が立っている感じは否めない。
ジュリー・アンドリュースよろしく腕を大きく振る場面が随所に見られるのだが、その腕がぷるんとして重そうで、もうひとつしっくりこないものがあった。見るものの好き好きではあるが。
スーザン・サランドンの怪演に感心させられ、ジェームズ・マースデン扮(ふん)する王子の世離れ感も大いに笑わされた。一緒に見た家人は、パトリック・デンプシーでもっている映画でしょと、帰宅後すぐに『グレイズ・アナトミー 恋の解剖学』のDVDを借りてくるほどの、主演男優、絶賛ぶりである。